40歳で決断した、料理研究家への道。

「食べることとお酒が好き」とワイングラス片手に笑顔で語るのは、東京・日本橋で料理教室を主宰する“スヌ子”こと稲葉ゆきえさんだ。二人の娘を育てながら、料理研究家という好きな道に生きる女性。家庭と仕事、二つを手に入れた彼女だが、現在に至るまでは紆余曲折の連続だった。スヌ子の半生に迫る。

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「産休後のポストはお約束できません」

「ギャラリーキッチンKIWI」は、江戸通りに面した1階にあるキッチンスタジオだ。スヌ子が手際よく料理を作っている姿をガラス越しに見ることができる。自ら倉庫に足を運び選んだという大きなキッチン上の棚には、ワイングラスがずらりと並び、「お酒好き」の片鱗が垣間見られる。

スヌ子の作る料理は、“簡単なのに手の込んだように見える”をモットーとする。「食べることとお酒が好きだから酔いながらでも美味しいものを作って食べたいと考えたから」だそうだ。

その原形は出版社編集者時代に作られた。24年前、あるファッション誌で働いた経験がある。入社前、大学生だったスヌ子は、紙面の花形でもあるメイクコーナーの担当をしたいと熱望した。が、いうまでもなく狭き門。そこでスヌ子がとった行動は、出版社の編集部に電話を掛け、直談判するというものだった。「人手は足りているから」と断られたが3日おきに電話した。かけ続けていたある日、「急遽、人手が必要だ」と言われすぐに駆けつけた。そこから出版社でのアルバイトが始まった。大学時代は編集のアルバイトとしての生活に明け暮れたが、採用試験を受け晴れて正社員になった。

希望が叶いファッション誌に配属されたが、1年ほどで異動になった。配属先は建築関係の雑誌。未経験の分野だったが、何でもやってみなければわからないと取り組んだ結果、意外に性に合っていたようで仕事は楽しかった。高級志向の一般住宅を紹介する雑誌で、全国の住宅を取材して回った。

「その頃全国の美味しいご飯、お酒を堪能しました」と振り返る。

その後、別のファッション誌に異動し、2002年に友人の紹介で知り合った編集者と結婚、妊娠し、産休に入った。長女を出産後、復帰しようと考えていた矢先、次女がお腹にいることがわかった。続けて産休を取る旨の報告をしに会社に行ったところ、人事部から言われた言葉は、「復帰後のポストはお約束できません」だった。

愕然としたが、当然と言えば当然かと妙に納得した自分もいた、という。雑誌の編集者の生活は、終電、徹夜は当たり前。子供がいるからという勝手な事情で「17時にお先に失礼します」と言って帰ることなどできるのだろうか…。時は、今から15年前の2003年頃で、当時は、今ほど女性の働く環境や働き方など叫ばれていない時代。社会も会社も仕組みが不十分だった。

きっかけは「レシピ教えて」の一言

悶々としながらも、産休、育休に入り、子育てに忙殺される日々が続いた。ちょうど30代前半で同期入社の仲間たちは、副編集長になったり、一流出版社に転職したりと働き盛りを真っ只中。キャリアアップの人生を謳歌していた。そんな同期の活躍を尻目に「自分はなぜ子育てしているのだろう」と疎外感を感じていた。同期だった友人に相談したところ、ちょうど流行り始めた「ブログ」の存在を教えてもらった。

「ブログを更新することで自分のメディアが持てる」と勧められ、言われるがままに、日常を書き綴った。内容は、夕食で作ったメニューや子供のこと、家族で外食に行ったことなど。料理が好きなこともあり、食事について書くことも多かったという。ブログをやることで何かが変わるかは意識していなかったが、初めてみると、同期や友人から「美味しそう」などとさまざまなコメントが届くようになった。

「嬉しい」

久しぶりの感覚だった。

書くだけでなく、気分転換にホームパーティーも週末ごとに開催した。「子供がいるから外食はできない。それならせめて家に同期や友人を招いて料理を振舞い楽しもう」。そんな考えからだった。料理好きはどんどん高じて色々な種類の料理を作ることが当たり前になっていった。

そんなある日、同期から言われた一言が、スヌ子を料理研究家へ導いた。

「これどうやって作ったの?簡単でちょっと変わった料理だからレシピ教えて」だった。

しかも、「料理、レシピを教えてくれたらレッスン料として費用を払うよ」とも言われた。

「こんなことでお金をもらっていいの?」

最初は、半信半疑だったが、定期的にホームパーティを開催し、その内容をブログでも公開するようにしたところ、さらに反響が出るようになった。そしてブログをやっている友人が「レシピ付きホームパーティー」として紹介したところ、知り合い以外の人から「料理を教えて欲しい」という問い合わせが舞い込んできたのだ。

とはいえ、すぐに会社を辞めて料理研究家として独立するには、踏み切らなかった。産休後、2005年には一旦仕事に復帰し、校正、タイアップ記事の作成や書店営業などの部署をこなした。

しかし、常に「子供がいるために一緒に働いている人に迷惑をかけてないか」「他の人たちより給料を下げてもらった方がいいんじゃないか」「でも、負け人生で終わらせたくない」「このまま定年までずっとこのモチベーションで働いていけるのだろうか」など葛藤する日々が続いた。

2度目のきっかけとなった震災

そんなスヌ子にとって2度目の転機となったのは、2011年3月11日の東日本大震災だった。ちょうど40歳という区切りの年だった彼女は、「この先何が起こるかわからない」というモーレツな危機感を抱いた。そして、退職を決意した。

実は、スヌ子は少しずつ料理教室を開業する準備をしていた。2010年12月に現在のスタジオを開講。週末だけ生徒を募り、定期的に料理を教えていた。この頃はあくまで副業だったが、退職を機に、本業として生きる道を選んだのだ。

料理を通して自分がメディアに

「お金をいただき人に料理を教えるのだから、きちんとした料理を学ぼう」と考え、スタジオ開講の少し前、有名料理学校のインストラクター講座に通ったことがあった。

しかし、そこでスヌ子は驚いてしまった。インストラクター講座なのに、教えていたのは本格的な和食などが中心だった。

「忙しい日常でそんな基本から作れないのでは?!」

そう思ったスヌ子は、「だったら私は、逆張りにすればいいんだ!『簡単で手間をかけたように見える料理』というニーズはあるのではないか」とひらめいたのだ。

そして、週末に教えている生徒からの反応も上々だったことから、「これならイケる」と確信に変わっていった。

スヌ子の料理教室のスタンスは、「一方通行ではない参加型」が基本だ。教室の内容もユニークで、料理を一つの調理台でみんなで行う。定員は、10人前後だ。そして、調理が終わったら作った料理を参加者全員で食べる。しかも、必ずお酒がつく。お酒が入ることで、話に花が咲き時間を忘れて話通すそうだ。

また、食べるだけ、飲むだけレッスンというプランもある。当初、友人を招いて行っていたレシピ付きホームパーティーが原形だ。料理は、スヌ子が作り、参加者はその料理を食べ、お酒を飲む。もちろんレシピは付いてくるが参加者は料理をせずに食べられる。

このようなユニークなレッスン内容が好評を得て、現在は8クラスほど開催している。

「料理はツールに過ぎません。実は、教えているという認識はないんです。料理をネタにしながら人に集まってもらいたい。自分がメディアになり、集まってきた人たちがその場所で料理の話や日常の悩みなどを打ち明けられる場所になればいいと思っています。自身が知っている食文化の知識はもちろんお伝えしていきます。また、会社員時代、子育てなど私が経験してやってきたことを伝えることで今悩んで苦しんでいる方の少しでも手助けになればいいですね」と屈託のない笑顔でスヌ子は話す。

会社員時代に様々な部署に異動してもその職を全うし、編集から雑誌の販売促進までこなしてきたスヌ子。「なんだかんだ言っても会社員時代は、楽しかった。今は、自分の好きなことを自由にやっているので、もっと楽しい」という。望まない環境になっても自らの力で”楽しさ”に変えてきたから言える言葉。そんな彼女だからこそ周りに人が集まり、出版社時代の誰よりも自分がメディアになっていると感じているはずだ。(敬称略)

Hello News編集部 山口晶子

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