ユーミーマンションを作った男の挫折と栄光の軌跡

「低家賃・入居者第一主義」を掲げるユーミーマンションの名前は、賃貸業界で働く人であれば一度は聞いたことがあるだろう。鉄筋コンクリート造の賃貸マンションブランドで、ファミリータイプを中心に、全国で建設されている。鹿児島県の弓場建設(現:ユーミーコーポレーション)の先代社長、故・弓場静昭さんが、昭和52年から55年頃にかけて、社員や協力会社と共に生み出した規格型のマンションだ。

鹿児島は、全国の都道府県の中でもとりわけて所得が低く、加えて台風や水害にしょっちゅう見舞われていた。

「災害に強い頑丈さを持ちながら、安く入居できる賃貸住宅を作らねばならない」

静昭さんは、建設費のコストダウンに動き出す。その当時、建設業界では当たり前とされていた構造や間取りの考え方を変え、現場の工程や段取りを見直していった。それから約40年経った現在、ユーミーマンションは全国に広がり、フランチャイズ加盟企業も含めた建設戸数は、6700棟8万3000戸を数えるに至った。これは鉄筋コンクリート造の賃貸マンションシリーズとしては国内最多とされる。(商工リサーチ調べ)

今年5月、その弓場静昭さんの生涯を描いた本、『お客様は神様ではない・改』が出版され反響を呼んでいる。筆者は、静昭さんの長男で、現・ユーミーコーポレーション社長の弓場昭大さん。当時、相場の2割のコスト削減という難題に取り組んだ男たちの知られざる苦悩と挑戦の日々を描いた物語だ。

今コラムではその一部を紹介したい。

目次

「兄弟思想で協力しようや」

ユーミーマンション がローコストを実現できた理由の一つに、「金曜会」の存在がある。「金曜会」とはユーミーマンション の施工をする協力会社の組織だ。

昭和50年代、事業拡大と下請け脱却への執念が煮えたぎり沸点に達して行く過程で、弓場建設の跡取りとして指揮を執っていた静昭さんは、「職人みんな集まって勉強会をしよう」と言い始める。

〈建設現場の仕事には段取りがあります。関わる人々も、大工だけでなく、左官職人や水道工事会社、電気施工会社など、様々な業種の人員がいて、それぞれが自分の持ち場を担当します。そのため、工事の進捗によっては稀に手持ち無沙汰になる時間が発生します。例えば、電気屋の配線や配管工事などが遅れたとします。そうするとクロス施工の作業員が現場に入っていたとしても、配線が終わるのを待たなければなりません。父はそこに無駄があると見ていました。〉

『お客様は神様ではない・改』より

請負からの脱却と特命を得る方法として、静昭さんは先に建設費を決め、その予算内で建物を建てることを考えた。その頃そんな考え方をする人は誰もいなかった。 

〈「私たちは、はなからマンションを建てる気のないお客さんに提案し、仕事を決めていくわけですから、必ず特名になります。これは発注でなく『造注』です。『請負』ではなく、『請勝』です。建てる気のない人に建ててもらうわけですから、無から有を生み出せるのです」〉

『お客様は神様ではない・改』より

実現するにはコストダウンが必至であり、その第一は、現場作業の効率化にあると考えた。それが「勉強会」という発想につながっていく。

当時から弟分だったサッシ会社代表の松山清隆さんによれば、静昭さんは繰り返し協力会社の人々を集め、こう訴えたそうだ。

「現場で働く者同士が兄弟思想で協力すれば、相当なコストダウンができる」

この頃できた職人の勉強会は、開催された曜日から「金曜会」と名付けられた。現在でもユーミーマンションを建設する協力会社は「金曜会」として存在し、兄弟のようなつながりを持って活動を続けている。

〈父は、生涯「下請け業者」という言葉を使わず「協力会社」と言い続けました。それは、愛情を持って商品を組み立ててくれた現場員さんへの感謝の表れだったのだと思います。「金曜会」はその後も成長を続け、勉強会は月に二回になり、さらには、「コストダウン」、「安全」、「品質」、「工程」などテーマ別に5つの委員会まで作られるようになりました。そして日頃から現場の効率を上げる知恵を出し合う風土が作られていったのです。〉

『お客様は神様ではない・改』より

フランチャイズ開始の夜明け

ユーミーマンションの誕生に関わった一人に、構造設計士の片平守さんがいる。片平さんは当時をこう振り返った。

「私が静昭社長(当時)と知り合った昭和61年は、ちょうどユーミーマンションが全国にフランチャイズ展開をしていこうとしていた矢先でした。社長は構造的なことを聞きたいと言ってやってこられたのです」

〈「壁式構造なら全国で通用します。いろいろ広げていくんだったら、目の届かないところも出てきます。すべての現場を直接管理することはできないし、現場に行けないこともあるでしょう。壁式ならその問題を解決できますよ」と、片平さんは答えた。壁式は、柱や梁を使わず、壁で躯体にかかる力を支える構造で、今でこそ多くの中低層マンションで採用されているが、当時は極めて珍しい構造だった。その頃、圧倒的なシェアを持っていたのはラーメン構造で、この構造を得意とするほうが仕事もあった。〉

『お客様は神様ではない・改』より

片平さんは、壁式の方がコストが低く強固だということ、柱や梁がない分、凹凸がなく室内も広く使用できること、杭工事が不要でベタ基礎で良いことといった利点を丁寧に説明した。静昭さんはしばらく考えた後、こういったという。

「壁式構造がいいのはわかった。次はそん中でも、どのプランが一番のコストダウンにつながるか、検証をしてほしい」

かくして、実際には作らない建物の設計とプランニングが始まった。最終的には、8つのプランが検証され、そこから、最も経済的な間取りと寸法が導かれていったのだ。架空の建設物の設計代としてかかった費用は300万円。こうして「3階建てで、ワンフロア4戸の計12戸のプランがもっともコストが安く、土地に対しての収まりも良い。これをベースにしょう」と決まった。

片平さんは言う。

〈「静昭社長のコストカットにかける思いというのは、人並みでは考えられないほどでした。私は、今でも、ユーミーマンションは、建物の世界に大改革を起こしたと確信しています。当時多くの建物が、間取りを優先して、間取りを造ってから壁を配置していました。しかし、社長は、“最初に構造を造って、壁の配置を決めてから、それに合わせて間取りを造れ”といったんです。今では当たり前になったことですが、その頃にそういった発想をする人はいませんでした」〉

『お客様は神様ではない・改』より

片平さんがユーミーマンションに関わり始めて11年目の平成7年1月17日、神戸・大阪を阪神淡路大震災が襲った。震災発生から1ヶ月後、片平さんは被災地へ入った。

「入居者に万一のことがあったら……」

不安に押しつぶされそうだったが、実際には被害はゼロ。それどころか、クレームひとつなかったのだ。このことは構造設計を担当した人間たちの大きな自信にも繋がっていった。震災発生時工事中だった4棟のユーミーマンションも、同年の1月、4月、6月に完成し引き渡すことができたという。

「街を作ろうや」

民間の建設会社が賃貸マンションを建てること自体が珍しかった時代に、ゼロから規格型の賃貸マンションを作り出し、コストダウンに挑んだ人々がいたことで、鹿児島県下には1万3605戸(平成31年1月現在)ユーミーマンションが建ち並び、台風や水害、土砂崩れから、入居者の生命を守ってきた。

本の中では、当時融資と営業の両面で、弓場建設を支えた元JAマンの加藤眞昭さんのこんなコメントが紹介されている。

〈(鹿児島の)谷山にある谷山小学校は、生徒数が3000名を超え、日本一のマンモス校となりました。昭和44年にはあまりの児童の多さから東谷山小学校に分離。さらに昭和53年にはもう一度分離して、西谷山小学校が誕生しました。次に、谷山の隣にある中山小学校が生徒数日本一となり、この冠は現在も維持されています。「鹿児島という地方都市のしかも中心地からは少し離れた小学校が日本一の生徒数を誇る。これは、ユーミーマンションが建ち並び、街ができたからに他なりません。たくさんの子供達がユーミーマンションで生まれ、育ちました。これは地元の農家の皆さんにとっても、大きな喜びとなりました。」

『お客様は神様ではない・改』より

ユーミーマンションが街を作り、人々の暮らしを支えてきたことがよく分かるエピソードだ。

本の中では、ユーミーマンションの開発に関わった20名を超える人々にインタビューをし、その当時の様子を実際の証言に基づき伝えている。

Amazon⇒https://www.amazon.co.jp/dp/4434256874

著者紹介
ユーミーコーポレーション株式会社代表取締役。1971年2月生まれ。鹿児島出身。国立都城高専3年修了。91年4月に弓場建設株式会社に入社し、主任、係長を経て専務に到るまで、様々な部門で役職を経験。会社設立50周年を機に、2012年4月、代表取締役に就任した。
趣味は、ゴルフ、ダーツ、マリンスポーツ。今年5月には待望の長男が生まれたばかり。普段はクールでコワモテのイメージだが、子供の話になるとつい目元がほころび、イクメンの顔をのぞかせる。

Hello News編集部 吉松こころ

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